逮捕状
「何で、ほぼ犯人だと分かってる場合でも、犯人はすぐに逮捕されないの?」これまた説明が必要な質問を投げて来た息子。昨日「思い込み」の説明をしたので、同じだよと伝えました。
犯罪の被疑者が逮捕されるには、警察と検察が「相当な疑い」がありかつ、逃亡や証拠隠滅の恐れがある場合に裁判所に逮捕状発行を請求します。
司法は人権を守る場所。だから疑わしきは被告人の利益に、という考えがあります。被疑者の段階なら尚更です。
かつて警察の強引な捜査で無責任な冤罪逮捕が横行した反省も含め、人権を守るためには「相当な疑い」つまり物証が出ないなら状況証拠をかなり集めて、起訴できる水準に達しなければ逮捕状はうかつに出さないという司法の砦です。
三権分立システムをとる日本は、警察という行政と裁判所の司法は別機関で、独断で人権侵害が起きないようにしています。その一つのフィルターが逮捕状請求。
かつて起きた松本サリン事件が記憶に新しいのではないでしょうか。そもそも警察が、第一通報者の方を犯人と思い込み、決めつけ、マスコミが連日「こいつが犯人に違いない」「どうみても犯人だろ」と思、い、こ、み、報道を加熱させました。
警察による取り調べは家族にも及びました。この時逮捕状は出ず釈放されますが、地域で疑われ、全国的に犯人だという集合意識が育ち、そういう目で見られたなら、真犯人である教団の犯罪だと明るみに出るまでの間、この方は一家全員、親族に至るまで犯罪者として扱われ、人権どころか命の危険にさらされました。
1990年の足利事件は無実の男性が4歳の女子を殺害したと逮捕起訴され、無期懲役で服役しました。けれどDNA鑑定の誤りが判り、再審無罪が確定しました。警察による誤認逮捕から服役し、無罪になるまで殺人犯として扱われた期間は17年以上です。働き盛りを刑務所で費やし、出てきた時は70歳手前。この失われた人生を、どう保証出来るか?と考える時。「人として生きる権利」を償えるものはありません。
冤罪事件はたくさんあります。だから警察も近年は慎重になり、裁判所も一度検察が起訴した事件はほぼ黒だという見込みで逮捕状を出しているので、そう簡単に覆らないから慎重になるわけです。
思い込みのメリット
誰かの思い込みが、それが警察であれマスコミであれ国民であれ、誰かの権利を侵害する。そして、騒いだ本人もその思い込みの代償を払う。それくらい、思い込みとは人生の方向性をズラして行きます。
冤罪事件で、警察内部で最初にこいつが犯人だ、と主張し捜査方針を決定した人には、どんな思い込みがあったのでしょうか。「悪い奴は罰せねばならない」という過剰な正義感はどこから来たのでしょうか。四つのレベルのとこかに、土台がありますよね。
マスコミの正義感も同じです。人は、何故同じような集合意識を持つのでしょうか。それは、そのやり方が採用しやすく、得られるメリットが大きいから。大多数の意見なら正しいと思い込めば、「犯人が分からない」という不安、恐れを封じられるからです。
また、それに踊らされることは、一体感を感じられるというメリットもあります。噂話と同じで、共通の話題があれば仲間意識が芽生え、安心感を得ます。
そこに、他者に対する思いやりや自分は正しいという前提にだけ立たず、他者の真実を尊重するという「徳」があるなら、こういった大きなうねりも生まれづらい。
徳とエゴイズム
人権とは、人が生まれながらにして持っている「精神的・肉体的・スピリチュアル的に健康で文化的な生活を送る権利」です。
権利が一方的な主張になった時、それはエゴイズムの押し付けになります。
権利を主張するなら義務を負う、と社会の構造はなっています。例えば成人したらお酒が飲める、けれど自分を律する義務を負う。大人になり車を運転する権利を得るなら、安全注意義務を負う。
このルールの中で、それを遵守することは人がお互いに心地よく安全に生きるため。ですが、「義務」と捉えるから、破りたくなる。破って良いと思ってしまう。人のサガとして、義務を破ることが自由だと勘違いするからです。
だから創造主は言います。義務やルールではなく、道徳心、つまり徳を使って権利がエゴイズムにならないようにバランスをとるんだよと。他者の心地よさと、自分の心地よさの権利のバランスを、徳でとるんだよと。
罪を犯したら罰せられるから罪を犯さない、という恐れを使った抑止力も必要な場面はありますが、一人一人が「罰せられるから」罪を犯さないとか、犯したら隠して誤魔化す、ではなく「他者を思いやる気持ちがあるから」罪を犯さない、という世界になるのが理想ですよね。そのために、人は学び、新たに徳でお互いにバランスを取る集合意識を育て、人類は少しずつシフトしていくのではないでしょうか。
起こったことに意味づけをするのは当事者であり、部外者じゃない。共感は尊いけれど、被害者の気持ち、加害者の気持ちを憶測で決めつけないことが、尊重じゃないでしょうか。
過剰に感情移入して、部外者が自分のフィルターでジャッジすると憤りが生まれる。なんのために、そこに引っかかって感情移入して憤ったり悲しみますか?何を学べますか?
人は今自分に必要な感情が沸きます。誰かのではなく、自分の感情の動きにフォーカスすることもまた、学びになります。







