自己犠牲をしていることを気づかない
自己犠牲と言うと、我慢して何かをすることと捉えられますが、自己犠牲をしている最中というのはその自覚がないことが往々にしてあるのではないでしょうか。
例えば愛して欲しいという想いが強い時、相手の望む姿になろうとして努力しよう!と思うかもしれません。努力している間は魔法にかかったようにそれに一直線だから、その裏で本当の自分らしさや心地よい在り方を隅に追いやっていたりします。この、自分の心地よい状態、あり方を犠牲にしていることに、人はだいぶ後になってから気づきます。
ヒーラー気質の人であれば、誰かを助けたいという純粋な想いがあるでしょう。それは素晴らしいことですが、自分の人生の時間を削って無償でサポートを提供したり、自分の体力や精神状態を隅に追いやって尽くすこともまた、無自覚で自己犠牲になっている状態ではないかなと思います。そして、寄生のエネルギーが強い人は良く分かっていて、サポートは無償で受けられるものという無自覚の搾取で「助けたい」という純粋な想いに乗ろうとします。
境界線
ではそういった寄生的なエネルギーを受け入れる人と受け入れない人は何が違うのか。それは境界線の有無です。境界線を引くこと自体が悪いことだという罪悪感(のビリーフ)があれば積極的にそういった人を引き寄せるでしょうし、受け入れてしまうと思います。境界線の定義を単に知らない場合もあります。
境界線は、自分が自分らしくあるために「ここのラインから先はゆずれません」と、自身を守るラインです。だれもが自分の人生の責任だけをとることが出来ます。誰かの人生は誰かの選択と自由意志の連続で、その人本人が責任を取ります。自分の人生は、自分の魂がそうありたいと望んできた「道」の上にあり、他者の人生の上をそのまま歩むことではありません。もちろん伴走はすると思いますが、あくまでも伴走です。他者の人生丸ごと、いつも寄り添ってその人のために自分の時間や心地よさを犠牲にしている形は伴走ではなく、他者の道の上をトレースして歩んでいる状態です。自分の道を歩き自分の人生を愛するべき誇らしいものにするために、「心地よい在り方」の境界線は誰でも引いてよいものです。ただそこに、エゴの暴走がないことや、他者への思いやりとリスペクトが必要ですけどね。
境界線を引いていないことに気づかずにある日突然息苦しくなるから、人はそこで初めて「あれ?自分を犠牲にしてる?」と気づき、後戻りしていいのかどうしたらいいのか分からなくなってしまうのではないかなと思います。ここまで手を出して助けたんだから、最後まで面倒を見る「べき」だよね…という罪悪感を覚えて。
愛すること
自己犠牲してしまう場合、もしかすると必要なのは「私は愛されています」といいう感覚かもしれません。この愛されているという感覚が創造主の定義観点とずれていないかを点検してみると良いかもしれません。何度もDLしたんだけどな?という方は、愛を受け取る受容体が少ないのかもしれません。物理的にビタミンを取るのも効果的ですし、受容体が全身の細胞にぶわっと増えていくのをDLコマンドの際に見届けるのも良いかもしれませんね。
どっちも悪くない
もしも自己犠牲「させられた」という怒りが出てきたなら、創造主の観点を思い出してください。リレ2で知ったやつです。
誰かにいいように使われたと思っている場合、それは決してその誰かの一方的な思惑でそうなったわけではありませんよね。自分自身が相手に「そうさせた」のだということを思い出してください。自分の中の底流が、何かメリットがあるから寄生的なエネルギーの誰かを必要として、お互いに引き寄せあったというのが真実です。
誰かに言われた言葉に傷ついたなら、何故その言葉を言わせたのでしょうか。自分の中の何のエネルギーがその言葉を引き出したのでしょうか。底流は、その言葉を浴びることで何を正そうとしたのでしょうか。それを、手放して今後同じような相手を引き寄せなくするのがワークです。
自分が相手を加害者役でい続けさせる限り、両者のエネルギーは繋がったままです。被害者役をやめて、ただただお互い必要だから引き寄せあったんだよねって、許しに変えられたら、その怒りは終わります。こういった怒りや葛藤は、それを経た先に「悟り」があります。悟るために現れてくれた相手だったかもしれませんよ。







