遺伝と環境

運動能力

運動能力に関しては、遺伝と環境の割合は5:5で影響を及ぼし、知能は6:4、性格形成は環境要因が優位になると言われています。昔、「じゃあスポーツ選手で大成している人は遺伝的な才能を後押しする環境に出会えた奇跡的な人なのかもしれないな」と思った覚えがあります。本当は水泳の才能があっても、陸上競技をしていたら爆発的な大成にはならなくて、与えられた環境の運で結構左右されちゃうんじゃない?と。

でも、少し前に遺伝子検査をした際に、私は足の速さに全く移転的なアドバンテージがなくて、むしろ鈍足遺伝子だったと言いう結果が出た時に気づきました。あれ?遺伝子って「思い込み」のエネルギーでどうとでもなるんじゃない?と。


私は母が国体、インターハイの陸上選手で、国の強化指定選手でした。当時の5種競技なので、走るだけでなく幅跳びややり投げ、ハードル、高跳びなどの多岐にわたる競技で最上位選手だったわけです。だから、母は私も当然陸上競技に向いていると信じていたし、私もそう信じていました。実際に、陸上部には入ったことがないので全国大会などには出ておらず、賞レースの世界を経験したことがないのでどのくらいの実力だったかは分かりませんが、それでも中学までは陸上部員の人たちよりも速く、県内のスポーツテストの総合成績で1級でした(帰宅部です)。高校も部活をやっていないので当然公式のレースは経験がありませんが、校内ではぶっちぎりでした。

これは、遺伝的な才能がなく、専門的な環境が与えられていなくても「私は足が速い」という思考のエネルギーだけで成り立っていた世界だと思います。
で、あるならば、仮にシータヒーリングでいうところの遺伝的レベルで先祖から受け継いだサイキックな才能や徳がなくても、今現在の自分が思考をシフトすればなんだってこれから得られるということではないでしょうか。
私は豊かで、満たされている!というエネルギーで生きてれば、なるほど人間関係の豊かさも物質的な豊かさも自然と集まってきますよね。今さらながら、思考の持つパワーが現実を創っているという基礎DNAの巻末の言葉が染みます。

知力と遺伝

知力は遺伝的な影響が6割と言われます。ただし、運動能力と同じでその才能を発現する環境要因が整うことがカギだと行動遺伝学では分析しています。
ただこれも、例えば一般家庭で塾もいかずに東大に行く人がたまにいるように、「自分は勉強が好きだ」とか「東大に行ってこれを学びたいんだ」というエネルギーが強ければ、遺伝子や環境をまるっと超えて現実が作られますよね。

ネガティブなエネルギー

このように、遺伝子情報と環境は「才能を伸ばす」面からみると、個人の思考のエネルギーで何とでもなるといえますが、問題は「環境要因でネガティブなエネルギーが形成された場合」だと思います。与えられた環境がポジティブでもネガティブでもなくフラットな場合は、ただただ自分のエネルギーで物事を変えていくことは可能だと思います。でも環境要因によってネガティブなエネルギーを持った場合は、ビリーフが創り出されるので、ネガティブな方向に現実が創造されると言えるのではないでしょうか。

例えば私は弟が二人いますが、幼稚園、小学校の段階でギフテッドでした。数値は控えますが、余裕でメンサに入れる稀有な数値でした。でも私は同じテストで130くらいしかなく、今はそれでも高い方だと分かりますが幼稚園児の私は両親から弟と比較され、一人だけ何でこんなに馬鹿なの?と面と向かって言われました。ああそうか、私は馬鹿なんだ、と思ったらもう、その思考のエネルギーが作るお勉強苦手の現実創造まっしぐらです。

この世に小学生で0点取る子がいるって信じられますか?1年生や2年生の段階で。
私は0点でした。授業中、何を聴いても「私は馬鹿だから分からない、理解できないんだ」という思い込みが前提になっているので、苦痛すぎて授業中に座っていることも出来なかったし、寝たり脱走していました(2年生で私立を退学になった話はどこかで書きましたが、こういうことです)。

両親とも頭がよく、弟たちも天才と呼ばれていて、自分だけがみそっかす。
足が速いから運動会では先生たちも重宝してくれるけど、その日一日だけの温かい視線で、普段が普段だったので問題児扱いで怒られてばかりでした。

ですが、小学校5年生の時に転機が訪れます。
弟に対抗したいという動機で始めた空手が私には合っていたようで、気持ちが良いくらい男児選手を吹っ飛ばし、無双状態になりました。その時の師範が私に言いました。
「君は、いい子だね」
えっ?と思いました。周りからダメ人間扱いされてる私にいいところがあるの?空手が強いことが良い子になるの?どういうこと?と混乱しました。
師範から貰った言葉は、「君は正直で優しい」でした。そうか、何かが出来るとかできないとかじゃなくて、私の性格を観てくれる人がいるんだ!と、びっくりしました。それまで性格のことなんて、怒られてばかりだったので考えもしませんでしたが、学力や運動能力と言ったこどもの世界では全てのように思われたものに、性格という新たな概念が入ってきた瞬間でした。

そう、私は悪い人間じゃない。おつりは正直に返すし、いじめをしない。困ってる人がいたら確かに助けてるな。そうかわたし、正直で優しいんだ!なんだ、私にも良い部分あったんじゃん!と思えたら、その日から世界が一変しました。そう、思考のエネルギーが変わったからですよね。「自分なんて」から、ほんの少し「私のこと、私好き」に変わったんです。

そこから、勉強も激変しました。5年生の後半で塾に行かせて、と母に頼んで入った塾の先生が良い人で、その先生の授業が面白くて、褒めてくれたのであっという間に学年ビリからクラス2~3位くらいまで成績が上がりました。「私なんて」というブロックが外れたから、勉強だってできるかもしれない!のエネルギーにシフトしたわけです。

ビリーフが形成された瞬間

この時に気づくべきでしたが、私は「自分を卑下して、誰かに見出してもらって、前進する」を小5の時にはじめていました。ビリーフが形成された瞬間です。
つまり、自分なんてという状況を創り出せば、そうじゃないよと否定し、見出し認めてくれる誰かが必ず現れて、それによって自信を取り戻し前進&進歩していけるというやり方です。

中学に入ると濡れぎぬとかまあ色々あって教師からにらまれて、再び勉強を全くしなくなります。いよいよ高校受験でヤバいというときに親の都合で中三後半に転校になって、そこでまた「見出してくれる誰か」と出会います。国語の教師が私を面白がり、発言を求め、あっという間に成績が上がりました。もともと愛知県の私がいた中学は偏差値が高い子が多い学校だったのもありますが、愛知で200/320番くらいだった成績が、転校した途端最初のテストで学年上位になり、受験には役に立ちませんでしたが通信簿はほぼオール5になりました。

引き寄せる環境が変わる

さて、これは自慢話をしているわけではありません。どれだけ「思考の持つパワー」がすごいかの話をしています。通常、あり得ない大前進をしていますよね。0が90くらいになるわけです。たったほんの少し「自分を認めてもらえて自分で自分を認める」だけで。
自分は出来る、と思えたら、そのポジティブな信念は人生をこんな風に創造していきます。遺伝や環境で与えられたネガティブな要素は、思考のエネルギーで「環境要因ごと変える」ことが出来るということです。いまもし、環境要因でトラウマを持っていたり苦しかったりしても、自分の思考を変えると引き寄せる環境が変わります。人生が変わります。

とはいえ、「卑下」を使って前進するビリーフを創ったために、このあとも社会人になってからも同じことを繰り返します。確かに前進できるし現実は変わるのですが、必ず卑下するような状況もセットです。
高校は担任とそりが合わず早々に勉強をフェードアウト。高校三年生の時に予備校の校長に出会い、その人がめちゃくちゃ褒めてくれて、秋から何とか受験勉強を始められて大学に行けたとか。社会人では足の引っ張り合いであることないこと言われたけれど社長だけが認めてくれて裏で二人だけで話をしたり戦略を聴いてくれ、必要としてくれたり。コンサルタント時代も八方敵だらけの状況でクライアント企業の当時の本部長と総支配人が認めてくれて全面的にサポートしてくれて成功できたとか。

これはシータヒーリングに出会ってから「あ、まずい」と気づきました。ワーク案件です。
「私は誰からも必要とされていない」と卑下することのメリットは、「じゃあ私に何が出来る?」と自分の内側に問いかけて、自分の強みを探せることです。そして自分がその時その瞬間に出来る、世界に提供できるものを見つけると、誰かが見出してくれて重宝してくれる。この図式ですよね。あるいは「今自分に出来ること」を粛々と一歩一歩やっていくという忍耐も学んでいましたね。

思い込みのエネルギーというのはメンツを変えていつも同じようなパターンで繰り返し現実を創造します。みなさんも、もし同じパターンを繰り返しているのなら、自分の中の思い込みを探してみてください。私はもう「自分なんて」と誰かと比較して自分を卑下する人生はノーサンキューです。そんなことを繰り返さなくても「既に自分の中にある固有の才能や能力を知っている」感覚を呼び覚まし、「自分を卑下することで前進できる」を引き抜いて、「自分を信頼することで前進できる」に置き換えればいいですよね。おなじように、あれ?と思う思考が隠れているのを見つけてあげてください。それを発見してあげることは、自分自身を見つめ見守り愛することだから。