虚無

孤独

マーベルの最新作「サンダーボルツ」を観てきました。
マーベルの映画は毎回人間とは、愛とは、救いとは、正義とは?というような、人間世界の感情の揺れ動きをテーマにしています。今回のテーマは「虚無感」でした。ストーリーはネタバレになるので避けますが、劇中のフレーズを引用して書いていきます。

「孤独を感じたら、それに蓋をしようとしても無理なの。誰かに話すだけでマシになる。」
「孤独って、それが続くと困ったことに魅力的なものになるの。それが虚無感になっていく」

「感情に蓋をする」より、それがネガティブなものであっても内側から湧き上がってきた感情は「無かったこと」にして内側に押し込めようとしない方が良い、これは真理です。怒りの感情を内側にため込んだらそれは、根強いエネルギーとして常に自分の中に内包された状態になります。感情を抑え込むのが当たり前になると、感覚がマヒして自分の中にネガティブな感情が渦巻いていてもそれは通常運転だから、気づかなくなります。その次に何が起こるのか。

細胞の中にネガティブなエネルギーが認識しないままため込まれた状態で「細胞間コミュニケーション」を取ったらどうなるでしょうか。怒りのエネルギーを爆弾のようにいっぱい抱えていたら、エネルギーは同種のエネルギーを集める性質があるので、人生に「あなたを怒らせる、怒りの感情を抱かせる人」を引き寄せまくります。自分なんて尊重されないんだ、どうせ幸せになれないんだ、というエネルギーを持ち続けたら、幸せになれない状況や幸せにしてくれない人を引き寄せ、尊重してくれない人を引き寄せます。


だから、感情はため込まずにとことんその感情に浸ったら、俯瞰して自分を見て「あ、今私怒ってるんだな」と認識し、「この感情持ち続けたくないな」と思って手放すことが大切ではないでしょうか。
ヒーラーはセルフワークで感情を解放できますが、やり方が分からない人でも感情解放をしています。それが、「誰かに話す」です。劇中で「私は寂しいの!」と涙を流した女性主人公が、男性主人公の愛を拒絶して突き放そうとしますが、拒絶にめげずに受け止めようとした男性主人公の姿を見て、主人公は思いっきり彼に感情をぶつけて、癒されます。「いるよ、ここにいるよ」と受け止めてもらうことで、「愛」によってさらけ出し、癒されます。

虚無

また、「私がいるから」と、女性主人公は男性主人公に貰った愛の癒しを虚無感満載のニューヒーローに対して伝え、抱きしめます。誰にも必要とされず、利用されるだけされて心の檻に囚われていた彼を、檻の中から救い出します。人は愛を知ると、その愛を別の誰かに渡せる。愛が虚無を消し去ります。希望に変わります。
シータヒーリングでやっていることはまさにこれだと思います。自分を愛することを知ると、愛によって虚無感が消えます。誰に愛されなくても自分が自分を愛し始めたら、細胞間コミュニケーションも変わるので、愛してくれる人を引き寄せる人生が始まります。そして、誰かが困っていたら愛を使って助けることも可能になるのです。

虚無って、きっと「孤独感」「愛が分からない状態」が当たり前すぎて感覚感情がマヒしてしまい、それがデフォルトの自分だと思いこんでいき、いつしかその甘美な被害者意識が魅力的なものとなり麻薬のように囚われた先に待っている感情じゃないかなと思います。でも、それは生まれて来た時に知っていた、持っていた愛という感覚感情を、あまりにも辛い現実の中で忘れてしまっただけ。自分を俯瞰して「虚無に囚われてるな、私」と気づいたら「もう虚無は十分味わったから手放そうかな」と思い手放すために行動を起こせたら、すべてが変わっていくのだと思います。本当の虚無などないと、私は思います。愛の上に上書きされて保存されただけで、生まれた時から虚無だったわけじゃない。もしも虚無しか持っていなかったら、そもそも生まれていません。どんな形であれ、どんなレベルであれ、生むと決意した母親の中の愛がなければ生まれることを許されないからです。

救い

愛着障害や虚無感、絶望感から脱するには、まず自分が持っていた愛を思い出すこと。そのために自分をもう一度愛し始めること。そのために、自分を愛したいと願うこと。世界中に様々な愛のメソッドがあります。シータヒーリングは自分を愛するところで終わらず、他者愛、人類愛、地球への愛、と広がっていきます。その過程で自分だけでなく自分以外の存在も自然も愛し助けていく(救い)ことが出来ます。自分をいい加減愛したいと思えたら、シータヒーリングという選択肢もあるよと言うことをここに記しておきます。

そして。この映画は今まで散々人を殺し、それに苦悩し、隠れて生きるしかなかったヴィラン達がニューアベンジャーズとして表舞台に出て救われた話でもあります。世論の賛否はさまざまです。大切な人を殺された、害された当事者なら許せないと思うのは当然です。

けれど、私はこれを「どんなに悪事に手を染めても救済はある」と言うメッセージだと受け取りました。誰しも後悔はあります。懺悔があります。けれど、もうそんな自分でいたくないと願うなら、そこに救済はある。これが、創造主の無条件の愛ではないでしょうか。善人なら救済がある、というのは既にジャッジがあり、条件つきです。

人間は、1人では学べない。他者との共同創造で学びます。加害者と被害者の間には潜在意識の合意がなければドラマ自体起こらない。殺す側と殺される側に合意がある。またはカルマが働く。これを人間目線で見れば残された遺族は「許せない」となるし、それが多くの人の感情だと思います。けれど、遺族ではなく当事者の感情としてはどうでしょうか。死して七層に還ったとき、起こったドラマが何故引き起こされたのか、全て理解します。許す許さないは残された人間の感情で、創造主の観点から観るとそれも当事者同士の学びの共同創造です。そこには善悪のジャッジはありません。残された人にも学びがあります。

だから、失敗してももうダメだと思っても、必ず救済されるという選択肢はあり、救済されたいと願うなら、出口はあります。世界中の誰が許してくれなくても、自分が自分を許してあげる権利はあります。それは万人に与えられた権利だから。きっとニューアベンジャーズ達はこれから、過去の殺戮の分だけ、いやそれ以上に人間を助けていくことで自分を許せるようになる。

だからマーベルって好き。